昨日4月10日、能登半島へ行ってきました。一番の目的は先月の写真展と関西長島会での協賛で集まった被災者への義援金を七尾市長の茶谷義隆氏に届けるためでした。少し早めに市庁舎に着いたボクを茶谷市長は暖かく迎えてくださいました。以前にメールでこちらの意思とボクの能登半島との関わりを知らせてあったので本当に心和む面会でした。そして関西長島会の山上静君が集めた10万6千40円とボクが先月の写真展会場で集めた9万3千円を手渡し最初の目的は終わりました。
これですっかり心が軽くなり七尾市庁舎を出るとボクの足は自然と駅前のバス停へと向かったのです。今から51年前(1973年)、25歳のとき自衛隊退職後に東京で仕事にあり付けなかったボクは同期だった大泊出身の友人の紹介で漁師をすることになりました。その時東京から夜行電車で金沢まで来てそれから七尾線で七尾駅まで、そのあとバスに乗り換え海寄りの国道16号線を1時間余りかけて大泊に着いた記憶がどこか心の中に残っていました。そして今回はその記憶を辿って51年前の自分と能登の海に会いたくてバスに乗ったのでした。
昨日の大雨は止み快晴の能登半島の青空がボクを迎えてくれました。先の震災の影響はあまりここでは見られなかったものの、瓦屋根の修復が至る所で見られ心が痛みました。途中狭い海岸線の道路を走るともう完全に忘れていたその景色ににあの日の記憶がだんだんと蘇ってきたのです。途端に心が高鳴り押し寄せる感情を止めることが出来なくなったのでした。周りの建物はすっかり変わってしまったけれど、その前に広がる能登の海は昔と同じ、水平線の彼方に連なる立山連峰の雪をかむった白い山脈がぼくに語りかけました。「お前よく無事に帰ってきたね」と。あの頃は貧乏のどん底で、金はなく、仕事もなく、でも写真に対する夢だけは燃えたぎっていました。そんなボクをこの能登の海が助けてくれたのでした。
能登の海はボクにとって第2の故郷。あの時寝泊まりした番屋はもう別の建物に変わり見つからなかったけれど、朽ち果てた古い漁船を見つけると一気に感情が高まり涙がとまりませんでした。今75年生きてきてもう直ぐ終わりに近づいた自分の人生の中でこの小さな漁村で体験した出来事は大切な宝物となり今また自分にもどってきました。
ありがとう能登の海、ボクの第2の故郷。被災者の皆さん負けないで。